東北沢駅にもほど近い、代々木上原三丁目。上原の閑静な住宅街にあるのが、今回ご紹介する「井出 音 研究所」です。所長を務めるのは、サウンド・スペース・コンポーザーとして世界的に活躍する井出祐昭さん。
井出さんは、駅の発車メロディーの開発や、商業施設の音響空間設計、国際的な展覧会の音響プロジェクトなど、最先端の技術で新たな音を生み出してきました。今回は、井出さんにお仕事の経緯や普段の研究内容、代々木上原の街についてお話を伺いました。
社会現象になった電車の発車メロディー
──サウンド・スペース・コンポーザーという職種を初めて伺いました。どんなお仕事なのでしょうか。
サウンド・スペース・コンポーザーという肩書きは世の中に私一人なので、あまり聞き馴染みがないかもしれません(笑)。クライアントの課題を音で解決するために、音の分析や楽曲制作し、空間に合う音をプロデュースをしています。
作曲などのソフトだけではなく、建物の構造や音響のスピーカーなどハードも考慮して空間を構成するので、単純に音楽を作れば良いわけではなく、意外と構成要素が多い仕事なんですよ。
──これまでどんな空間をプロデュースされましたか?
最初に手がけたのが、JR東日本の新宿駅と渋谷駅の発車メロディーでした。国鉄からJRに民営化したタイミングで、従来の発車ベルの騒音を減らしつつも、駆け込み乗車を減らすことが目的でした。
──今は発車メロディが定着していますが、その先駆けだったんですね。
そうですね。当時は国内はもちろん、海外にも発車メロディーがなくて、前例がないので自分たちで理論を開発するしかないとさまざまな音を分析しました。
分析して最終的にたどり着いたのが「鐘の音」でした。お寺にある鐘は突いた途端にパシっと平手打ちのような音の後に、ゴーンと抱きしめるような音がするんですよ。緊張と緩和の音色が同居していて、まさに発車メロディーにピッタリだとわかって。鐘の音の周波数を分析して、同じ周波数の音を色々な楽器で演奏して、最終的に300曲ほど作りました。
──1つのプロジェクトで300曲も作るんですね!
出来上がりに手応えを感じても、実際にホームで流すと空間に合わないこともあったんです。なので曲を作ってはラジカセを持ってホームの端で流す実験を繰り返していましたね(笑)。最終的にピアノやハープなどで作ったメロディーが採用されて、平成元年に実用化されました。実用化されると新聞などのメディアで連日取り上げられて、社会現象になって。反響の大きさに驚きました。
分子の振動で音楽を作る
──今までに担当されたプロジェクトはどのくらいありますか?
数年前に数えたら1000件ほどありましたね。最近では、世界最大級の化粧品メーカーである日本ロレアル株式会社と共同で、髪の毛の状態を音で表現するシステムを開発しました。
──髪の状態が音でどのようにわかるのですか?
ありとあらゆるものを音楽に変換するアルゴリズムを開発したんです。そのアルゴリズムを活用して、髪の毛のキューティクルのなめらかさを音程や音色、アレンジで表現して、髪の状態をメロディーで伝えます。今まで一般的だった顕微鏡の画像より髪の毛の状態がわかりやすいと好評で、化粧品業界のオリンピックと称されるIFSCC世界大会でグランプリを受賞しました。
──どのようなアルゴリズムで髪の毛の状態を音楽に変換しているのでしょうか。
アルゴリズムの元は、ソニフィケーション(可聴化)と呼ばれている技術です。以前、細胞の分子から音楽を創るプロジェクトがありました。人間の体の中で働くアドレナリンやセロトニン、オキシトシンなどのホルモンの分子は非常に小さな単位で振動しているんです。その振動をスーパーコンピューターで計算して、振動の数値を音符に変換することで譜面を作ることができるんです。
体の中って分子がバラバラに動いてるように見えたり、雑音のようなものではないかと思っていましたが、実はメロディーや周期性があって完璧な音楽になっているんです。体ってオーケストラみたいなんですよ!
ソニフィケーションのグラフ。分子の動きを音に変換しグラフにしたもの。
井出さんが監修した書籍。分子の音が実際に聞けるCDが付いている。
──体の中の細胞の音が音楽になるとは驚きです!
できるんですよ。過去には通院中の患者さんの不安感を軽減しようと、細胞が再生する動きから生まれた音で病院のBGMを作るプロジェクトもありました。最近力を入れているのが医療の分野で、以前はアメリカ最大のがんセンターと一緒に音で治療の苦しさを軽減する臨床研究をしていました。
──音を聴くことで苦しさを感じないということですか?
そうです。立体音響で臨場感ある音を再現して別の空間にいるように感じることで治療の苦しみを軽減させる音楽療法です。3年間アメリカに通って治験をした結果、苦痛が軽減する有効性が実証されました。これからは音楽で治るところまで持っていきたいですね。
──実際に音楽で治療ができるんですか?
多分できると思います。できるというか、できているんですけどその証明ができていないだけだと思うんですよね。自分が証明できなくても、自分のアプローチを元に誰かにやってもらえたらいいなと思いますね。
サウンド・スペース・コンポーザーになるには
──井出さんのような仕事をしたい場合、資格や勉強方法はあるのでしょうか?
学問であれば、音響工学でしょうか。僕はまず音の響き方の特性を知るために音響工学を学び、あとはひたすら音楽を聴き込んでいました。研究所のメンバーはたまたまみんな楽器のプレイヤーが多いんですが、自分で弾けなくても、とにかく音楽を聴くことがポイントだと思います。聴けば聴くほど、耳ができていくんです。
──たくさん聴くとどう変化があるんですか?
音楽を聴くと最初はテクニックに気づくと思うんですが、聴き込むほど音色の違いに気づくようになるんです。そこに気付けたら結構いい線に来ていて、音楽を仕事にできるところにいる気がします。僕はシンバルを聴いた時に、プレイヤーで音色やタイム感に違いがあることに気づいたことが、音楽を仕事にしたきっかけでした。
音楽以外で必要なのは、相手とどうコミュニケーションするかという人間関係学でしょうか。ビジネスのプレゼンで重要性を感じますが、「音楽で世界で初めてのことを!」と挑戦的な依頼が多いのですが、その言葉の裏にある相手の真意を読み取って、失敗のない斬新なものを目指すようにしています。これはもう人と付き合っていくしかないですよね。人の気持ちを常に見ていくことだと思います。
──井出さんが最初に音楽に興味を持ったきっかけは何でしたか?
最初のきっかけは、小学校のクラブ活動で器楽部に入ったことでしたね。練習があるとワクワクが止まらなくて、興奮状態になるくらい音楽が好きでした(笑)。弾くのが楽しくて、毎日練習をしましたね。小学校のリコーダーも好きで、うまく吹くための理屈はないんですが、吹いていると湧き上がってくるものがあったんです。小さい頃から音楽が好きでしたね。
──好きな音楽を仕事にして第一線で活躍されるのは素敵なことですね!
好きな音楽を45年仕事で続けられて幸せですね。もうだいぶ歳を重ねたので体力戦ができなくなってきましたが、以前は同時に20件のプロジェクトが並行して動いていた時もありました。
──20件!!すごい数ですね。仕事を円滑に進める秘訣はなんでしょうか。
こだわりや思い入れがありすぎると終わらないので、「はい、おしまい!」って振り返らずに次々に終わらせるのがコツです(笑)。同時並行で狂いそうになった時期もありましたが、途中から吹っ切れて、ランニングハイになって「幸せな空間にたどり着いた」と思う瞬間があるんですよ。そうすると「20件でも40件でもいくらでも仕事できる!」という気持ちになるんです(笑)。
──仕事のアイディアはどういう時に生まれますか?
自宅が小田急線沿線で、研究所のある代々木上原まで10分くらい電車に乗るんです。アイディアは全て移動中の車内で考えています。電車の中はパソコンも開かず、頭で考えるだけ。考え方にコツがあって、真面目にやっちゃダメなんだと思います。相手をくすぐったり、落とし穴に落としたり、驚かせたり、人にいたずらする感覚で考えるようにしています。
代々木上原の街と、井出さんのこれから
──代々木上原に研究所をおいた理由を教えてください。
最初は自宅で仕事をしていましたが、没頭できる環境を作りたくてオフィスを探しました。探しはじめて今のマンションを内見した時に、ベランダから見える景色が気に入って代々木上原に決めたんです。一人で作業もしますが、黙々と作業するのも寂しいし、今はお客さんとの打ち合わせや、時には宴会もしています(笑)。
決め手になった研究所から見える風景。
──代々木上原の街でお気に入りのスポットはありますか?
研究所の前が東大のキャンパスなんですが、キャンパス内のレストランがあって気に入っていますね。代々木上原でランチを食べることも多くて、駅前のお蕎麦屋さんやファイヤーキングカフェはよく行きます。ファイヤーキングカフェから研究所までが急な坂になっていて、「山登り」と呼んでよく歩いています(笑)。
──これからの目標を教えてください。
目標は音の可能性を爆発的に広げて「音の未来」を作ることです。音の世界って実はあまり進歩していないんです。例えばバッハの時代からオーケストラという表現形式は変わっていなくて、次の段階に行ってない。もう少し時代を進めないといけないなと思います。次のステップへ進めるキーワードは、AIにできない心のエネルギーの音楽だと思っています。
音楽って空気を振動させるだけじゃなくて、エネルギーの表現なんです。僕らもAIの音楽制作を散々やってきましたが、人間は現実的な側面だけじゃなくて心や気持ちがあるので、AIが当たり前になった後に飽きたり、空虚感を感じるように思います。
音を仕事にしていると、目に見えないものを表現する難しさを感じますが、そこが醍醐味だと思っています。目に見えなくても、音楽で理屈を超えてぐっと心に迫る表現を目指していきたいですね。
「なぜ、この音が新しく、また効果的か」を人に言葉で説明したり、楽曲で表現して、多くのプロジェクトで実績を残してきた井出さん。「見えるように表現するのは、まだまだ初心者」と謙遜する井出さんですが、研究所内の膨大かつ、多岐に渡る書籍を拝見して、普段の勉強や努力を目の当たりにした気がしました。最新の技術と人間の感性が融合した豊かな音の未来を楽しみに、井出さんの今後の活動に注目したいと思います。
井出 音 研究所
【WEB】HP / IDEOTO RECORDS
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