代々木上原のご近所、富ヶ谷交差点の近くに「Neo Tokyo Strings(ネオ東京ストリングス)」というバイオリン工房がある。いわゆるショップではないため、ふらりと立ち寄ることはできないけれど、今回はこの街の気になる人として、同工房のオーナーであり国内外の音楽家が支持する楽器職人・井筒 功(Isao Izutsu)さんを訪ねました。
楽器職人の父のもとに生まれ、自身も自然と導かれた生業
ラフなナチュラルウェーブのパーマがよく似合う「Neo Tokyo Strings」の井筒 功さん。平日の朝10時、工房に到着するとエプロンを身につけて、その日の作業に取り掛かるのが日課。午前中は、楽器のオーダーや修理依頼など、来客対応をすることも多いのだとか。
「父も楽器職人で、現在も長野で工房を構えています。だから、生まれながらに“いずれ僕もこの仕事をするのだろう”と思ってはいましたが、子供時代〜10代の頃はスタントマンに憧れて上京したり、ファッションが好きだったので代官山のアパレルで働いてみたりと色々自由に挑戦させてもらっていましたね。19歳の頃、父の工房に勤めていた人に勧められたアメリカの専門学校への留学がきっかけで楽器制作の道を歩み出しました」
「父は、自分の仕事を若い人に継ごうとか、息子である僕に教え込もうというタイプの人ではなかった。自分がやりたいならやりなさいと、あくまでも橋渡しをする程度。でも、心のどこかで“留学して、世界で共通するような技術を学んできて欲しい”という思いがあったんじゃないかな」と井筒さん。1989年、単身アメリカに渡り、シカゴにある楽器制作の専門学校に入学。2年間の学びを経て、卒業後はシカゴの楽器工房で勤務する。のちに、ロサンゼルスの工房でも働いて、ある程度の制作経験を積んでから帰国。1996年、32歳の頃に東京・参宮橋で「Neo Tokyo Strings」として自身の工房を構えた。原宿団地への移転があり、現在の場所・富ヶ谷での営業をスタートしたのは今から15年前のこと。
大通り沿いにありながら、どこか隠れ家のような雰囲気のある2階建ての物件をアトリエとして改装。現在、同建物の1階ではカフェ&バー「CALLAS(カラス)」を営業し、その2階にこの工房がある。週2回程度、井筒さんも「CALLAS」の店頭に立っているので、そのグッドタイミングで訪れることができた際には、楽器制作の話を伺うこともできるかも。
CALLAS CAFE & BAR:Instagram
300年前のものも現存する。楽器は、時代を超えて生き残るもの
「Neo Tokyo Strings」が主に承っているのは、バイオリン、ヴィオラ、チェロのオーダーメイド制作から修理、調整。工房には、製作中の楽器や修理のためにお客さんから預かった楽器、これから楽器になる木材などが並んでいる。聞けば、海外からアポイントをとって実際にここを訪ねてくる人もいるという。音楽は国境を越えるなんてどこかで耳にしたことがある気がするけれど、例に漏れず「Neo Tokyo Strings」を慕うお客さんもワールドワイドなのだ。
この日、井筒さんが取り組んでいたのは、古いチェロの修理と取り掛かりはじめたばかりのチェロの削り出し作業。修理や調整というのは、切れた弦の張り替えから折れたアームの復元、親族が過去に使っていたという楽器のコンディションを整えること、200年前くらいに作られた楽器のリペアなど内容は様々。本体の木材の大部分が虫食いにあっていたり、凹んでいたりして、ぼろぼろになった楽器の復元をすることもあるそう。
一台一台、すべて手作業で。それぞれの楽器と対話するように作業を進めていく井筒さん、黙々と熱心に、端正に丁寧に。その様子は、言うならば、楽器の神様の手仕事と形容したくなるようなものだった。
「バイオリンをはじめとする弦楽器の第一世は、今から約300年前に作られた楽器で、今じゃ何億円もするような価値がついているんです。でもそんな古い楽器も今だに現役で存在する。こういったアナログな楽器は、ずっと何年も何度も修理して使い続けていくものです。この工房にも200年前くらいの楽器が修理で届いています」
ちなみに楽器は何度も修理して使うことが前提で作られているそうで、綺麗に分解できるような接着剤が用いられていて、それが古来から使われている「ニカワ(膠)剤」というもの。
上の黒い液体が、楽器製作に用いられている「ニカワ剤」。 ウサギをはじめとする動物の骨や皮、腸、腱などを煮出してつくられるタンパク質をベースとしたゼラチンのような接着剤。
新品のオーダーに関しては、シンプルに“自分だけの1本を井筒さんに作って欲しい”というのが基本的なもので、それぞれのユーザーの演奏スタイルやリクエストを伺った上で、適したパターンを引き、制作を進める。
ベースとなる木材は、本当に一枚の木板。これが井筒さんの手によって楽器へと昇華される。
これはまだ削り出したばかりのもので、ここからどんどん削って滑らかなフォルムへと形成されていく。まるでドレープした布のようなしなやかなライン。試しに取材スタッフが削らせてもらったところまったく削れず、改めて、“熟練した職人の腕”、まさしく“神様の手仕事”を実感した瞬間。
ちなみにおおよその制作期間は、バイオリンが2ヶ月程度、チェロだと3〜4ヶ月だそうで、削り出し、ニスの塗布・乾燥、音の調整などを行いながら完成へと向かっていく。価格等オーダーの詳細は、記事末に記載のWEBサイト内に参考があるので、気になる人はそちらをチェックして。
いい仕事は、日々の積み重ねから
手先は器用だけれど、何かを考えるのに時間がかかるタイプだという井筒さん。そんな彼にとって楽器作りは難しく、そして難しいからこそ面白いと思った仕事なのだそう。
「この仕事と向き合う月日を重ね、年齢を重ねるにつれて“信用”がでてきたりするもの。まだ苦しいことはたくさんあるけれど、仕事って日々積み重ねだと思うんです。海外ではブランドや製作される国に関係なく、自分に合っていればその楽器を選ぶ人は多い。でも日本人はやっぱりどこか信頼、いわゆるブランド力やイメージまで含めて物事を選定することが多いので、そういう意味でも誠実な仕事を続け、世の中の信頼を積み重ねていくことは大事だと考えています」
経験・体験・年齢、大人になるにつれ、色々と諦めなければならないことも勿論あるけれど、その時々で今できることを精一杯やる。楽器職人に限らず、多くの仕事においてそれが一番大事なことだと、井筒さんは教えてくれました。
音楽は楽しい、クラシックだってロックやジャズのように身近でいい
楽器を手がける井筒さんが音楽好きであることは言うまでもない。工房にはこだわりのアンプがいくつもあって、ヴィンテージのスピーカーも収集(加えて最近はヴィンテージのエスプレッソマシーンもゲットしたらしい)。
「バイオリンと言えばクラシック音楽、となると自分には縁がないな、敷居が高そうだなって思ってしまう人も多いと思うんです。楽器職人の父のもとに生まれた自分でさえ、若い頃はクラシックってなんかイケてなくない?なんて思っていて、ロックやジャズを好んでいた。でもジャンル関係なく、音楽って芸術で、楽しむものなんです」
日本では特にクラシックというと、その道のプロが演奏したり、あるいは愛好家たちがきちんとおめかしして鑑賞しに行ったりするもの、という印象があるけれど、本来そういうものではないと井筒さん。アメリカへ行き、クラシックが一般的に、ポップミュージックのように親しまれているのを知り、それをカジュアルに楽しむ人々の様子に感化されてよりクラシックが好きになったという。
「演奏が上手いとか精通しているとか関係なくて、音楽は誰もが楽しんでいい。楽器の演奏だってそうなんです。やりたいと思ったら始めてみるのがいい。年齢も職業も関係ありません、音楽とは全く関係のない仕事をしている人が金曜の夜、数名集まってみんなで演奏したり、鑑賞したりそういうのがもっと身近なカルチャーとして認識されていけばいいなあと思います。現在11歳になる息子も趣味でチェロを習っています。元々バイオリンをやっていたけど、なんかしっくりこなくてチェロに変更。今はそれがすごく楽しいようです。何度も重ねてしまうけれど、クラシックって難しいと決めつけず、あなたの人生の楽しみの1つとして音楽を、クラシックを親しんでみて欲しいなと、僕は思います」
何気なく流すBGMがクラシック音楽というのも素敵だ。楽しみがあると、人生はもっと豊かになる。
取材中、井筒さんがたびたび口にしていた「楽しく生きたい」というのは、まさにそういう生き方のテーマをシンプルに言葉にしたものなのかもしれない。住みやすく心地よくカルチャーの栄えるこの街で、今日も美しい音色の種子が芽吹いています。
Neo Tokyo Strings
【住所】東京都渋谷区富ヶ谷2-45-21 2F
【営業時間】10:00〜18:00
【定休日】日曜・祝日
【電話】090-4416-5412
【WEB】 HP / Instagram / Facebook
ALL PHOTOS:SHO KATOH
【Information】
3歳から大人まで、老若男女問わず、”やってみたい”と思ったタイミングで初められる音楽クラスです。初心者はもちろん、フォローアップから受験対応まで受け付けます。曜日や時間帯は決まっておらず、レッスンスタイルも個別・グループともに対応可能。また、チェロのレンタルサービスも行っている。「体験レッスンは¥3,000で随時募集中。どなたでも何歳からでも人生を豊かに過ごせるクラスになればと思います」(井筒さん)
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